昭和48年6月24日 特別奉修委員
                                 中村良一


親の意見と、なすびの花は、万に一つのあだも無いと言う様な事を申しますが。これはあの、親の言うことという事よりも、天地の親神様の、お示しくださることと言う風にいただかなきゃならん。もう、本当に、万に一つもあだも無いのですからね。ですから、どんな場合であっても、この、安心の大みかげを頂かせて貰わなければ。
今、御神前にでらせて頂いたら、なすびの花がいっぱい咲いている。一つ、大きななすび、巾着なすびの、大きなのがなってるところを頂いた。なすびのお知らせは、安心と仰るですが、もう、どんなに花が、沢山咲いておっても、その花が、一つ一つがね、みんな、安心の元になるんだという頂き方をしなければいけないという事だと思うですね。えー、あだ花はないという事は、そんなら、どういう問題が、どんなに幾つも、山積みしておってもね。その一つ一つが、みんな、安心の大みかげを頂かせていただくものばっかりだ。神様の働きに、万に一つの、あだも無駄もないんだという頂き方。してみると、その問題問題がですね。あの、大変、生き生きとしてきますよね。もう、有難い意味において、生き生きとしてくるんです。
先ほど、原さんのお届けの中に、ある、難儀を感ずる、まぁ、深刻に難儀を感ずる問題に直面しておられたんですけれども。あの、例えばあの、畑にあの、何か、鶏糞か何か、肥やしをやりたいと思うおておったら、隣から、あの、何て言うですかね。豚の踏んだ、あれですか。それを、乾燥した奴があるから、叔母しゃん、要るなら、あんたげん畑に入れてくれんかと言うて見えたとか。隣に行ったら、本当にあの、梅が漬けたいなと思いよったら、紫蘇は沢山あるし、梅を買わなきゃならんがと思いよったら、隣から、裏の梅ノ木は、あんた、叔母しゃん、あんた方、家で、ちぎらんかと、こう言われたと言うのです。それで、行ってみたところが、もうすでに、熟して落ちてしまっておったとこう言う。けれども、そういうあの、例えば、梅を漬けたいと思うたら、神様がね、あの、そういう、例えばそれが、役には、もう、使えなかったけれど、頂けなかったけれどです。印を見せてくださることだけでも、素晴らしいと思うてね、おったら、今、その難儀を感じた、その難儀もね、これは、難儀ではなくて、こういう調子で、おかげを下さるから、これがね。大きなおかげに広がって行きさえすれば、問題はないことだ。こんな間違いのない働きのあってることだと思うたら、有難かったというお届けをしておられますが、それです。ね。踏んまえておる、それは、いかにも難儀のごたるけれども、難儀じゃないです。沢山の、いうなら、なすびの花が咲いておる所です。それに、あだ花がありゃせんじゃろうかと思うから、心配なのです。ここに一つ、なってるのを見たら、もう、必ずなるんです。ね。もう、それこそあの、なすびのお知らせは、いが、伊賀越えと言うてね、いがを越えてなるとこう仰る。そのいが、そのものも、だから、おかげだという事なんです、ね。そこに、私は、あの、いつも、安心のおかげを頂くという事は、そういう事ですね。えー、どんな場合であっても、それがおかげになると確信出来れるだけの信心をいただかにゃいけません、ね。
それがその、そう、ほんなら、今、自分が持っておる難儀と言うことも、簡単にその、安心とか、有難いと、実際は、受けられないわけです。けれどもその、心を、神様に向けておりますと、それこそ、あの、肥料の話であろうが、それが、梅干の話であろうがですね。例え、成就しなけいでも、その印を見せてくださるだけでもね。素晴らしいと感じ取れれる、その信心がね、日頃、目ごもう、出来ておらなければ、それが頂けんのです。こら、私共も、そうでした。もう、どんな難儀な状態の中にあっても、さぁ、教会で、御大祭か何かと言うて、なら、お金が例えば要るという時にはもう、そのお金だけは、絶対、お繰り合わせ下さりよったからですね。もう、毎月、御本部月参りは、どんなに無い時だってもう、必ず、神様は、お繰り合わせ下さりりましたからね。
だから、こら、神様が、喜んでくださる事と思うような事には、こちらが、情熱さえかけりゃ、おかげ下さるのだから。自分のする事、言うことが、全部、神様の、お喜びいただけるような願い方になったが最後、一切が、おかげにならん事はないと言う。だから、あの、ね。自分の、最近頂くあの、我情我欲な事を思うておってはね。それは、おかげになるか、ならんか分かりません。けれども、あの、願っておること、その事が、日常生活の、全ての、全体がですたい、ね。全体が、神様にお喜び頂ける様な願いが、その内容に、無からなければいけないという事です。
健康にならせて下さいも、お役に立ちたいから。お金をお繰り合わせをくださいという事も、お役に立ちたいから、ね。全てが、そういう様な事になってくる時に、その思いを募らせていただく事だけで、ね。そういう働きと言うか、おかげと言うもんを、はっきり、そこに見ることが出来る。だから、この問題も同じだ。心配なごと見えとるけれども、心配なこっじゃない。難儀と思うておるけれども、こら、難儀な事じゃない。千に、万に一つのあだもない、神様の働きだといただけるわけです。そこに、生まれてくるのが安心。安心立命とと言うのは、まぁだ、もっともっと深いもの。けれども、日々、そういう意味合いにおいての、安らかな、どんな中にあっても生活の出来れるところまでは、行かなければ、信心いただいておる値打ちはないですね。どうぞ。